菅江真澄の道・男鹿の秋風を たどる旅も今回で いよいよ大詰め!
文化元年(1804)9月10日、菅江真澄はここ、男鹿市鵜木道村から男鹿市野石 五明光へと北上します。
「道村」永源寺の扁額は大応和尚の書いたものというが、たいそうりっぱである。
永源寺↑
「本内」本内はポンナヰで、ポンとは小さいことをいい、またナヰは沢をいう。蝦夷ことばである。いま方言も勉強中なんですが、男鹿には地名(ケナシなど)やマキリ(マギリ=小刀)など結構 蝦夷ことばが残っているようですね~。
「松木沢」
松の木沢の一里塚は、むかしの往環の道標であろうか。
このあたりの「菅江真澄の道・標柱」は54号線(男鹿街道?)に次々と建っているので見つけやすいです。
「土鼻(土花)」
羽立は、またの名を獅子岬ともいう。家は七、八軒湖の岸にあった。
「野石」八幡神社 前
角間崎からこの野石のあたりまでは、海の漁も湖の網引きも生業とせず、もっぱら田畑の耕作をもって生計を立てている。
「五明光」
村に入ると水が湾曲しているところに、うつぎを刈り束ね、こもにつつみ、それに網をつけて引き延べえ、湖の岸べにいくつも漂わせておいてある(漬柴漁)。
男鹿を出たあとは浅内を通って能代へ向かったようですが、菅江真澄の旅は、そして 菅江真澄を追う旅は まだまだ続きます。だって男鹿に関する「真澄遊覧記」は全部で5冊。秋風・春風・鈴風・島風・寒風の五風で成り立っているんですもの!次回からは秋風の6年後、再び男鹿に舞い戻ってきた菅江真澄の歩いた道・文化七年(1810)男鹿の春風を追いかけまーす!